6月14日、タカトリグループホールディングス白壁ホールにて行われたうきは市青少年弁論大会。15名の弁士が犯罪や非行のない明るい社会を築くために、それぞれが体験したことや日頃感じていることなどを発表しました。その中で、最優秀賞と優秀賞に選ばれた3名の弁論を8月号から10月号にわたって紹介します。
朝を迎えられる喜び
中学3年生 伊福さん
「もし、明日お母さんが死んだらどうするの?」
これは私の母の口ぐせです。幼い頃からこの言葉を聞きながら過ごしてきました。そんな母の職業は看護師です。私が生まれる前から緩和ケア病棟で働いています。いつ亡くなってもおかしくない末期がんの患者さんがたくさんいる場所です。死と隣り合わせの恐怖と闘っている患者さんを、母はいつもそばで見ているのです。だから母は、日常生活が疎かになっている私たちに、
「もし、明日お母さんが死んだらどうするの?」
という言葉を口にするのだろうと思います。そんな母と過ごしてきて、私は「生きる時間の大切さ」について皆さんより考えてきたと思っています。そんな私だからこそ伝えられることを今日お話ししたいと思います。
看護師として緩和ケア病棟で日々働いている母はいつも帰りが遅く、忙しそうです。小学生の頃はそれが寂しく、早く帰って来られないのかと聞いたことがあります。そのとき母から返ってきた言葉は、
「痛い痛いって言っている患者さんを、ほったらかして帰ってきた方がよかった?そんな患者さんを見て、何も出来ず泣いているご家族を、そのままにして帰ってきてよかった?」
私は何も返すことができませんでした。でも母の仕事の重みを感じる答えでした。母は、「自分の声かけ次第で、患者さんの人生最期の1ページが、大きく変わる大切な仕事だ」と言っています。そんな母と患者さんのエピソードの中に、私もすごく考えさせられる話がありました。その患者さんは、人から頼られること、人を喜ばせることを生きがいとして生きてきた方でした。看護師さんたちは「いつでもナースコールを押してくださいね」と伝えるそうです。しかしその患者さんにとって「頼む」ということは、人に頼られることに生きがいを感じていた自分が頼るだけの自分になってしまう悔しさ、辛さが生まれる言葉だったのです。ある日夜勤明けの朝に「ごめん。お湯をくれる?」夜の間に水筒のお湯が冷めてしまい、お湯を入れなおして欲しいとのお願いを受けたそうです。頼まれる前に、自分から声かけできなかったことへの申し訳なさ、お願いの重みを感じ、お湯をもっていくと、起き上がってベッドサイドに座ることも時間がかかるようになった身体で「ごめんね、迷惑かけて。ありがとう」と紙コップにインスタントコーヒーを入れて待ってくださったそうです。患者さんが、「今日も朝がきたよ」と一言。母は思わず、「朝が来たね、乾杯ですね!」とコーヒーで乾杯をしたというエピソードを聞きました。その話を聞いて患者さんは「このまま寝て目を覚ますことができなかったら…」「明日朝を迎えられなかったら…」という不安を抱えながら眠りにつくのかと胸が締めつけられました。自分にとっては何気ない朝が、その患者さんにとっては生きている喜びを感じるかけがえのない朝なのです。
母から聞くばかりだった「明日どうなるか分からない。」この言葉を私自身が強く実感する出来事がありました。それは、おじさんの交通事故です。その日は近くの食事屋さんでご飯を食べていて、その帰りに事故にあいました。私はその時、外出をしており、電話越しで事故にあったことを聞きました。あの時の衝撃は今でも忘れられません。急いで帰り、どんどん状態が悪化していることを伝えられました。次の日、父に起こされて亡くなったということを聞きました。その時はまったく実感が湧かず、涙は一滴も出ませんでした。ただ、不思議な気持ちでした。お別れの時、柩のふたが閉まる瞬間、もうこの世にはいないんだと実感し、涙があふれてきました。あともう少しで家だったのに。もっと店を遅く出ていれば。そんな気持ちで胸がいっぱいでした。いつも通りの朝を迎えられなかったことが、今でも悔しくて悔しくてしかたありません。
おじさんの事故や他に明日を失った人を目の当たりにして、母の言葉はうそではなかったことに気づきました。「今日も学校か。」「今日も仕事か。」と考えたことはありませんか。少し憂うつに感じる朝でも、健康に過ごせているからこそ、迎えられている朝なのです。私たち人間はいつ死ぬかわかりません。たとえ病気と毎日闘っている人も、何事もなく健全に過ごせている人も、それは誰でも一緒です。朝を迎えたくても迎えられない人もいるんです。今日帰ったらぜひ、皆さんも考えてみてください。「朝を迎えられる喜び」を。そして、「生きる時間の大切さ」を。
