「飛騨のうんめぇ、お団子はどや?」。キッチンカーの中から声がした。神岡町のポン菓子屋本舗、下出明己さん(73)だ。
下出さんは農家の次男として、昭和28(1953)年4月6日に誕生。「生まれて直ぐ兄は亡くなっとるで、実質はぼくが長男やねぇ」。昭和47(1972)旧船津高等学校を出ると、岐阜市加納の自動車販売会社で経理事務の仕事に就いた。
昭和55(1980)年、垂井町出身の妙子さんと結ばれ三女が誕生。昭和59(1984)年、自動車販売会社を辞し、写真現像会社へ転職。しかし翌年。「女房が膠原病のリウマチで、入退院を繰り返して。それでぼくも長男やで、皆で神岡へ戻るかって」。神岡で就職先を探した。「鉄鋼を裁断する、研磨資材の会社に入ったんや。3Kとか5Kと呼ばれる、防塵マスクが手放せん大変な仕事やった」。下出さんは、新たな神岡での暮らしを守らねばと、5年間勤め上げた。
「昔、自動車販売会社で車の登録をやっとった関係で、仲間から『今度、飛騨ナンバーが出来るで、新車登録の代行事務を、おめぇやってみんか?どや!』って誘われて入社したんやさ」。平成3(1991)年10月、飛騨自動車検査登録事務所が発足。65歳の平成30(2018)年の定年まで勤め上げた。
「退職後何をするか、ずっと考えとって閃いたのが『ポン菓子』」。さっそくポン菓子製造機を購入。ポン菓子の試作を開始。「1回目は大失敗。ポン菓子が辺り一面に飛び散ってまって」。定年と同時に第2の人生が、ポン菓子が爆ぜる「パッカーン」と言う大きな爆音と共に始まった。しかし世はコロナ禍の席捲に揺れ始めた。令和4(2022)年、軽トラのキッチンカーを購入。「キッチンカーなら、コロナでも営業が出来たで。それで昔からやりたかった、みだらし団子の実演販売を始めたんやさ」。
冷凍のまま串に打たれた団子が、焼き台の上に30本並べられ、こまめに串を回し焦げ目を付け、醤油に潜らせ焼き上げる。「焼けるのを待ってくらはっとるお客さんに『まめなかなぁ』とか、『おめ、久しぶりやなぁ』とか、そんなやり取りしながら」。イベントや花火大会では、開店と同時にあっと言う間に長蛇の列!「最初は長い列でお客さんが待ってくらはっとると、お客さんと目を合わすのが怖かったんやさ。でも今は逆。てんてこ舞いする様な、そんな忙しさがええ。会場に向かいながら、『みんな今日も俺の団子を待っとるぞ~っ!』って」。一日最大、400 ~500本の団子を焼き上げる。「子どもが何にしようかなって、悩む顔を見るのが大好きなんやさ。『おっちゃん、お団子1本ちょうだい』って、掌に握り締めた小銭を子どもが差し出せば、勘定が合っていようがいまいが、数えもせんと『おおきになぁ』って受け取ってやる。だって健気やろ!でも中には、スマホ出して『オッチャン、PayPayで!』って、そんな子らもおる」。
キッチンカーは、自慢のみだらし団子を積み込んで、飛騨一円や富山を駆け巡る。
「紆余曲折の末、定年後に辿り着いた天職!」。今日は何処(いずこ)の空の下~ポン菓子携え、みだらし焼いて、飛騨の山々駆け巡る。天晴れ!飛騨のポン菓子屋本舗。
文/オカダミノル(飛騨市観光プロモーション大使)
