「鼠餅線古川小学校下の四ツ辻に立って、11月ではや20年。子どもらの通学を見守り続けとるだけやさ」。男は菅笠を擡(もた)げ、陽に焼けた赤ら顔で笑った。
古川町の菅沼明彦さん(79)だ。「傘寿までボランティア人生」を座右の銘に、雨の日も雪の日も子どもたちの通学を見守る。
菅沼さんは、昭和22(1947)年に古川町で誕生。吉城高校卒業後、昭和40(1965)年4月、愛知県東海市の東海製鐵(株)に入社。冷延(れいえん)と呼ぶ、鉄のコイルをローラーで薄く伸ばす作業を、24時間3交代制で担当。「ところが3交代の生活リズムが合わなんだんやさ」。同年10月、古川へUターン。その翌月には、名古屋の昭和郵便局に欠員が生じ、臨時補助員に採用され簡保のセールスを担当。「当時は制服もなく、高校の学生服着て集金に走り回ったもんや」。ところがその翌年、父が突然の事故で身罷った。「耕運機で踏切を渡ろうとした時、突然耕運機が止まってまって、汽車と相撲取って轢かれてまったんやさ」。父の事故死により、菅沼さんには長男としての責任が圧し掛かった。昭和43(1968)年4月、岐阜県吉城郡古川町の飛騨古川郵便局への、転勤希望が叶えられた。
昭和45(1970)年、古川町体育協会に入会。「郵便局の先輩が、手伝って欲しいって言うもんやで」。昭和47(1972)年から始まった、第1回「飛騨市ふるかわ元旦マラソン」の運営に奔走。昭和49(1974)年12月に、百合子さんと結ばれ三男を授かった。
平成7(1995)年。「高山へ転勤が決まって、体育協会副会長の仕事を辞めさせてもらったんやさ」。
平成17(2005)年、58歳で郵便局を退職。2年後には、町内21区の区長に。「毎月20日の日に、ず~っと昔から続いとる、交通指導をやらせてまうようになったんやさ」。ところがその年の11月に入ると、菅沼さんは毎日毎日「止まって下さい」と染め抜かれた旗を片手に、子供たちの通学を見守りはじめた。「古川小学校の下の四ツ辻は、見通しが悪かったんやさ。家から歩いて1分やで、朝飯食ってドラマ観て、菅笠被って旗持って四ツ辻へと向かうんやさ」。
20年で延べ1,000人以上の子どもらを見守った。
ある年の卒業式前日。四ツ辻で子どもらを見守っていると、6年生の女の子に袖を引かれた。
「『オジチャン、6年間ありがとう』って、封筒に入った手紙を手渡して来たんやて。何よりの勲章そのものやったさ」。20年に及ぶ見守りは、忘れ得ぬ思い出ばかりだ。
「笠被っとるわしの前で、数珠持って拝んでまうと、それまた怖えけどなぁ。あっそう言えば、笠地蔵へのお供えやないけど、女の子が『オジチャンちゃん、修学旅行のお土産』って、お菓子を買って来てくれたことがあった。『ごっつぉ様よ!』っていただいたけど、なけなしの小遣いで買ったんやと思うと・・・」。菅沼さんの言葉が、心なしかくぐもった。
「まぁ、来年からは座右の銘も『卒寿までボランティア人生』に改めなかんなぁ」。
毎朝四ツ辻に立ち続ける、古川町の笠地蔵、菅沼明彦。祠や地蔵尊幕もない。笠地蔵に憑依したかのような老人が、いずくともなく四ツ辻に現れ、すべからく子どもらの安全を見守り続ける。
文/オカダミノル(飛騨市観光プロモーション大使)
イラスト/波岡孝治(のみながらにがおえ師)
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